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白球追いかけ薄給になった管理人が運営するジャイアンツブログです。     ※コメントに書きたくないご意見ご感想はcoolvanilla3(アットマーク)gmail.com までどうぞ  
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勝っても負けても、試合内容がまだまだ本調子にはほど遠い我が軍。
とてもじゃないですが、まだ語るに値しない状態ですので、今日は少々違う角度からお話を。

私は、「なぜ巨人ファンなんだ?」と問われれば、「昔からそうだから」と答えます。
では、「なぜ、こんな金満チームのファンをやめないんだ?」と問われれば、いろんな答えはあるにせよ、やはりこの人の存在は大きいものがあります。 

080418_2242~02.jpg 080418_2242~01.jpg

野球少年だった私にとって、巨人軍の4番原辰徳は憧れの存在でした。
「4番」、「サード」、「背番号8」、どれも格別の思い入れがあります。

現役引退から12年の時が流れた今でこそ風化した感がありますが、原の現役時代、王、長嶋の時代を知る大人たちは、容赦なく原を批判し、「4番原」の響きの中にはどこか嘲笑めいたニュアンスさえありました。
その大人たちが揃って口にしていた「チャンスに弱い」との批判。果たして、通算1,093打点を記録した男は、本当にチャンスに弱かったのでしょうか?

少年野球で4番を打っていた私は、草野球で4番を打っていた私は、早くからそこに疑問を抱いていました。
原が活躍した時代は、プロ野球テレビ中継の全盛期に重なります。まだ携帯やネットはおろか、Jリーグさえも無い時代。国民の娯楽はプロ野球がその中心。視聴率は常時20%を超え、女の子でさえも野球を見ていた時代でした。
その中で常に注目を浴び、活躍した打席だけでなく、不本意な凡打も、カッコ悪い三振も全て全国中継されるジャイアンツ。そのど真ん中に原辰徳はいました。
一方、他球団の選手であれば、試合を決める一打がスポーツニュースで流されるのみ。
これはある意味印象操作です。なぜそのことがわからないのか?少年だった私には疑問でした。
その証拠に、ヤクルトの4番だった広沢は、巨人に入った途端ただの2流打者でしかないことが判明し、西武の4番だった清原は、早々にメッキが剥げて1年目にファンから応援ボイコットをされる屈辱を味わいました。
原の通算打点は歴代23位、382本のホームランは歴代17位。原より後の世代の選手で、原より上位にいるのは、清原、秋山、金本、ローズのみです。十分に偉大な選手であったと思います。

ただ、ここまで書いてきて何ですが、チャンスに弱かったとしてもそれはそれでいいんです。そこまで含めて原辰徳なんですから。
原は、イチローや松井のような超一流打者ではありません。ファン心理としても、打席にいる原を見つめる気持ちは、「信頼して」よりも、「願って」に近い思いでした。

それだからこそ、打つと嬉しかったんですよね。
その最たるものがこれです。(↓)89年のあの日本シリーズ。スタートからまさかの3連敗。近鉄加藤に「ロッテ(当時の最下位)より弱い」と言われ、全国の巨人ファンが悔しくて眠れない日々を過ごしたあの日本シリーズです。その3連敗の原因が、まさしく原。3戦ノーヒットの大スランプ。この日、この打席も、前のクロマティが敬遠されて迎えた屈辱的な打席でした。



ちなみに、この動画の中で「やったあぁー!!」と絶叫してるのは、大の阪神ファンのダンカン氏です。原と同い年なんですよね。
私は、「ランボー」もシュワちゃん演じた超人的アクション映画も全く興味がありませんでしたが、普通の人間が勇気を振り絞って悪と戦う「ダイハード」1作目には感動しました。原に対してもそんな気持ちがあったのかもしれません。

そのごく普通の一流打者は、その後も数多くの試練にぶつかり、必要以上の非難を受け、栄光の巨人軍4番打者にあるまじき紆余曲折を経て戦い続けました。
それでも原がヒーローであれたのは、ここ一番の時に、汚名返上の時に、必ずホームランを打てたことに尽きるでしょう。91年の、前の打者駒田が敬遠された後の、中日抑えのエース森田からのサヨナラ逆転3ラン。怪我で開幕から出遅れ、ようやく6月に復帰した94年、復帰初戦で阪神藪からのホームラン。今も胸に焼き付いています。
その中でも、やはりこれは欠かせないと思います。「バット投げ」、この表現だけでわかる方も多いことでしょう。このバットを投げた後の表情、それまでの鬱憤を全て込めたような鬼神の顔です。ヒーローインタビューで涙することはあっても、あまりこういう怒りの感情を表に出すことは少なかった原だけに、強く強く印象に残ってます。



原はとてもファン思いで、ファンを大事にしてくれた選手でした。ファンもまた原を愛し、超人ではない等身大のヒーローとして自分を重ね、思い入れを持って応援してきました。

それが爆発的な形で表れたのが95年です。
前年の落合に続き、ハウエル、広沢といった大砲を獲得した巨人。今の補強攻勢の先駆けとも言える年です。
その中で打順降格どころか、ポジションを奪われ試合出場すらままならなくなった原。そんな原にファンは異常とも言える声援を送り続けました。
代打どころか、落合との守備交代で出てきた時でさえ、東京ドームは地鳴りのような大歓声に包まれました。今、ナゴヤドームで「代打立浪」が告げられた時よりも、遥かに遥かに大きい声援です。ファンは、それまでの十数年、ジャイアンツを支え続けたのは誰なのか、ちゃんと分かっていました。篠塚でも中畑でもなく、クロマティでも吉村でもなく、原あってのジャイアンツだったんだ、ということをしっかりとファンは分かっていました。

そして9月20日。全盛期の美しい放物線でレフトスタンドへ通算380号を放り込み、ヒーローインタビューで言葉に詰まった原。私はこの日から、引退試合10月8日までの間、ほぼ毎日泣いていたと言っても過言ではありません。時にはスポーツ新聞を読みながら電車の中で泣きかけたことさえありました。

10月8日のこのホームランは、その弾道が完璧なだけに、なんとも言えない思いで、涙で霞んだ先に見届けました。これがこの日限りで引退する選手の打球でしょうか?



私の世代にとって、巨人の4番は原辰徳でした。
原自身が引退式で述べたように、巨人軍の4番は聖域でした。その重圧は、部下を持ったことの無い人間に管理職の気持ちが分からないのと同じで、経験したことのある人以外には計り知れません。そして、引退のその時まで原は骨折の後遺症を誰にも言わず隠していました。



この人が監督である限り、いかに間違った采配をしようと、どんなに負け続けようと私は応援し続けられます。過去の巨人軍の栄光を知り、巨人軍を愛し、自身もまたその栄光の歴史を作ってきた本物の「ジャイアンツ愛」がある原辰徳。

・・・長くなり過ぎたので監督編はまた次回。

YOUTUBEに貴重な動画をアップしていただいた方、特に「tom76867」様、本当にありがとうございました。約12年ぶりに見る映像でしたが、やはり大泣きしましたw

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